「十字架」
ルカ23:13-43
最近よく十字架を、ただの一つのアクセサリとして考えて身につけているのを目にするけれども、よく考えて見れば、それは今風に言うなら、死刑囚を処刑するための電気イスを首にかけているようなものである。事実、十字架刑は当時、最もいまわしい、そして屈辱的な処刑方法とみなされていた。
刑の対象は奴隷の悪質な犯罪者か、反逆者に限られ、刑の直前には、囚人は激しく鞭打たれ、十字架の横木を背負って町を引きずられ、処刑場まで歩かされた。処刑場にはすでに十字架の縦木が立っているのが通常であった。そこで囚人は横木に両腕を釘打たれるか、ロープでしっかりと固定させられ縦木につけられる。普通、十字架刑に処せられた者は1-2日かかって、窒息ないしは出血量減少性ショックによって死に至る。(しかし、イェスは6時間で絶命。)その後は一般的にそのままにして烏などの餌食にさせて処理するか、共同墓地に投げ込まれる。
このような犯罪者としての烙印を背負って、苦痛を背負って、イェスはゴルゴダの丘に向って歩まれた。「プライド」も「くやしさ」も、全てを後にして謙った奴隷のような姿で歩かれたのである。このイェスを前に、私達は誰一人として自分を誇ることは出来ない。「私は正しい」「私はこう思う」「私はこれだけは譲れない」、こういった全ての「私」という誇りを、イェスは虚しいものとされる。
私達クリスチャンにとって、この十字架の意味は、非キリスト者にとってのアクセサリや魔除的な意味をはるかにまさった意味がある。つまり「人間の罪の代価として、イェスが犠牲になってくださったシンボルであり、それを信じることによって救いが与えられるという象徴である」という意味を持つ。しかしイェスの十字架の意味を論ずる前に、イェスの苦難の十字架に共にあずかろうとする信者は果たして何人ほどであろうか。問題は「知っているか」ではなくて、イェスの十字架を真に自分の十字架として「感じているかどうか」である。
主イェスは一点の罪もないまま、奴隷の犯罪者だけが受ける極刑の十字架刑に処せられた。人々の嘲笑、兵士達の鞭、彼らが打ったイェスの手の平の五寸釘でさえも私の罪のためであり、さらにはイェスを殺したのも、この私であるという告白なしには、十字架はただの二千年前の出来事に終ってしまうのである。
私達はいつの間にかキリスト教を自分の都合のよい「愛のセンチな宗教」にしてしまったのではないか。キリストの十字架による救いの約束は、この世における試練や不安に対して麻酔剤となって私達の神経をごまかしてくれるようなものではない。むしろ世の人々よりも、罪や試練や不安を鮮明に感じ、苦しみながらも全てを主にゆだね、立ち向かって行く勇気が常に与えられること、これこそが十字架によって与えられた救いの約束による「真の希望」が生み出すものである。
使徒パウロは、イェスの受難にともに与かることなしに、我々に復活はあり得ないと言った。すなわち、聖書が我々に要求しているのは、あのイェスの隣りの十字架にかけられたもう一人の罪人のようになることである。私達は、キリストと共に「自分の内の古き人」を十字架につけなければならない。「私が正しい」「私を認めろ」「私は私のものである」というその「私」を十字架につけなければならないのである。すべての古き自分を十字架につけ、全てを主に信頼し、拠り頼む時、主は、隣りの十字架にかかっている私達に顔を向けて「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」言われるのである。