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私達は、人知による解釈によれば、日々死に向って、滅び行く存在にしか過ぎない。まさにその日その日を何となしに生きていく。楽しければ笑い、悲しければ嘆き、「虚しさの中の一時的な日々」を生きているにしか過ぎない、不完全な存在である。本来ならば、そもそも「感謝の心だ」なんて私達には、縁の遠いことに過ぎないのかも知れない。しかし、このような私達に対しても聖書は、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう(4:6-7)と宣言しているのである。信仰をもって神の救いの約束を信じる時、はじめて本当の意味での感謝の心が私達に与えられるのである。そして感謝の心を持つことは、人知を超えて、未来を所有する、真の希望を所有することなのである。 昔、日本によって韓国が植民地支配を受けていた当時、韓国の多くのクリスチャン達が日本政府によって迫害を受けた。その中で、最後まで信仰を貫いた「孫良源」という牧師の有名な10項目の「感謝の祈り」というものがある。 1.私のような罪深い者の家から殉教の息子が出るように最高の恵みを下さったことに。 2.この子達のような宝を、他でもない私に託して下さったことに。 3.3男3女の中から最も美しい長男と次男を献げることができたことに。 4.一人の子の殉教も貴重なのに二人の殉教の息子を出したことに。 5.信仰を持って生涯を全うすることも貴重なことであるのに、まして伝道しつつ銃殺によって殉教したことに。 6.米国に留学するために準備していた息子が、そこよりもっと良い天国にあなたによって召されたことに。 7.息子を殺した仇に対して、自分の息子にするような愛の心を持つようにして下さったことに。 8.二人の息子の殉教によって天国で二人の息子が私を待っていてくれることに。 9.苦難の中で信愛と喜びの心を下さったことに。 10.悲しみの真っ只中にあっても、心の平安を賜って下さったことに。 この収穫感謝祭を迎えて、私達は何を感謝すべきでだろうか。一人一人がどのような状況にあっても、神の救いの約束を信じることによって未来を所有し、今日を感謝することが出来る私達で在りたい。 ガラテヤ5:13-24 今朝の御言は聖霊の働きと、その働きがもたらした聖霊の実について語られた箇所である。しばしば聖霊に導かれて洗礼を受けてクリスチャンになったらそれでいいのだ、と完了形になってしまいがちになるが、今朝の聖書によるとむしろ洗礼を受けた後こそ聖霊を求め、聖霊によって歩む努力が必要であると語られているのである。 私達は教会の中で聖霊という言葉をよく耳にするが、聖霊を正しく理解している信者はそういないのではないだろうか。私達は聖霊と言えばすぐ「異言を語れるようにする霊」とか「癒しの力をくれる霊」または「預言を出来るようにしてくれる力」などと、聖霊の本質ではなく付属的な要素ばかりを並べてしまう。そしていつの間にかこの付属的な面が聖霊の本質に取って代わってしまう。 聖霊の本質はけして、恍惚状態を引き起こすことではない。いくら人を感覚的な興奮に導いてくれる教会の礼拝であっても、それがただの「感覚的な興奮」を目的にしているのであれば、それは聖霊の働きとはけして言えない。なぜなら聖書に「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊に欲するところは肉に反するからである。」と記されているように、感覚的な興奮それ自体はひとつの快感であり、肉の欲するところに過ぎないからである。聖霊の本質とは、あくまで私達とキリストとの生ける人格的な交わりを可能にしてくれるものである。一番代表的な例はイェスをキリストと告白させバプテスマに導くことである。2000年も昔の救いの出来事が現実のものとして私達の中で起こる事、すなわち信仰を持つことが出来るように助ける力こそ聖霊の本質である。これ程の奇跡があり得るであろうか。ここに驚くべき神の自分へのご計画と、聖霊の確かな働きとをハッキリと感じて受け取る感覚を養わなければならない。 パウロは、私達が聖霊によって神に召されたのは私達に自由を得させるためであるから、聖霊によって歩みなさいと語る。しかし、同時に聖霊をこの世的な欲求と対立するものとして記している。一見矛盾しているかのように聞こえてしまう。この世的な欲求を満たせないのにどこが自由なのか。私達は自由というとすぐに、何々からの自由という風に「消極的な自由」を想定してしまうが、本当の自由は、何々への自由、人を愛する自由である。人を愛することに対して私達はずいぶんと不自由である。愛そうとしても自分が邪魔になったり、この世の生活がブレーキになったりする。しかし、聖霊によって、そんな私達でも人を愛していくという自由「目的への自由」に導かれるのである。すなわち、今までは私達の力では到底出来なかったことを成し遂げるようにして下さる力が聖霊の本質なのである。実に聖霊の本質とは、私達には出来ないことを可能にして下さる「助け主」である。そして、私達に「聖霊の実」を結ばせる力なのである。 私達には、どのような場所においても、教会、家庭、または職場においても、「互いに愛をもって仕え合うべき使命」がある。私達の関わりの中に「喜びと平和の実」はあったのだろうか?私があの人にとった態度に「愛」はあったのだろうか?私があの人にとった行動に「寛容と慈愛」はあったのだろうか?私があの時下した判断に「善意」はあったのだろうか?私はあの人に「忠実で柔和」だったのだろうか?私があの人に言った言葉に「自制」はあったのだろうか?いくら長い付き合いであっても、またクリスチャン同志の交わりであっても、これらの実が一つも結ばれていないのであれば、それは聖霊による交わりではない。ただの肉の交わりである。私達は今立ち止まって、それぞれの信仰生活を振り返って、人々と自分との係わり方について悔い改める一時を持ちたいと思う。もしそれが肉による交わりであったなら、悔い改めて主に願い祈ることで、聖霊ご自身からの導き助けによって必ず豊かな聖霊の実を結ぶことが出来るのである。 「教会の交わりとその喜び」 ヨハネの第一の手紙1:1~4 今朝の箇所でヨハネは、神がイェスキリストを用いて、私たちに教会の交わりに加わるよう呼びかけられていると説く。神との交わりは教会の交わりを通してしか行われることが出来ない、そして神にある喜びは生まれない、ということを彼はよく知っていた。同好会や学習会を通して知識欲は満たされても、神ご自身がその場に臨み直接私達の魂に触れ、私達を喜びに満たすことが無いからである。教会の交わりによる喜び、まさにこの喜びこそが、信仰生活の全てにおいての原動力であり、エネルギーなのである。 この救われたという喜びがなければ、他人にキリストを伝えることはともかく、信仰を持って生きて行くことすらも出来ない。 すでに洗礼を受けている方は、御言によって心動かされ自分の罪を告白し、洗礼にあずかった時の喜び・感動を、知っている。生まれ変わった様な感動に満たされ、聖書にある通り地の塩と世の光となって、人々にこの神の救いを伝えなければと、情熱に震えるものである。 しかし、私達は弱い存在である。いつしか、あの新鮮な感動も喜びも薄れ、この良き知らせを人々に伝えたいという情熱も、冷めてなくなりそうな時を必ず一度は体験する。そういう時に祈り求めて一番変わらなければならないのは自分自身なのに、なかなかそう出来ない。周りが変れば、あの人が変れば、環境が変れば、自分も変れると思いがちになるものである。 このような時に、あの喜びと感動を取り戻すために、私達に一番必要な物は一体なんだろうか。それは「感謝の気持ち」であるといえる。「このような罪深い私のために主は十字架にかかってくださった。その主が私を導き教会の交わりに加えてくださり、私を通して一人でも多くの人々に福音を伝えさせようとしている。主に救われ、用いられている感謝の気持ち」、これこそが、私達に一番必要なものである。 神の導きがあって、この教会にブドウの木の枝として一人一人をつなげてくださったことへの感謝。今日も教会に出席し礼拝を捧げることができることへの感謝。 そしてこの礼拝を通して、神ご自身との交わりを通して、何度も何度も、主の愛を再確認させて下ださることへの感謝。また、御言を通して何度も何度もその救いの約束を更新させてくださっている事への感謝。そして、この教会の兄弟姉妹を与えてくださることを通して、お互いに愛し合うという実践の場が与えられたことへの感謝。 これらの感謝を覚えることが出来なければ、喜びに満たされることもできないのである。 今私達「教会の交わり」は喜びに満たされているのだろうか。それぞれこの礼拝堂に立ち止まって考える一時を持たなければならない。もし喜びがなければ、その喜びを取り戻さなければならない。 悔い改めて、全ての感謝の気持を取り戻した時に、初めて私達の群れは「神が共にする交わり」になり、「真の教会の交わり」になるのである。どうかここに集う一人一人の兄弟姉妹が、主にあって感謝を失わなしに、喜びに満ちて、互いに愛し合い、他の人々に喜びを伝えて行く群れになることを心からお勧めしたい。 ヨハネ6:55~68 今朝の箇所は、シモン・ペテロによって「永遠の命の言をもっているのはあなたです。」という信仰告白がなされいくところである。6章を少し前から読んでいくと、弟子のうち多くの者がイェスキリストのことばにつまずいて、イェスを去ったと書かれている。58節「私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終りの日に甦らせるのであろう。」ということばを文字通りにしか聞くことが出来なかったからである。「人の子の肉を食べ」「血を飲む」とは、十字架の上でさかれたイェスの肉、流された血という、イェスの贖いなしでは、私達の罪は赦されることなく、救われることができないという意味であったのを、多くの弟子達は理解することが出来なかったのである。 マーチンルーサーキング牧師やマザーテレサのような偉人も、まずはキリストのことばを求めた愛の人である。二人とも共通しているのは最初は、周辺の人々になかなか理解されなかったことである。 キング牧師の非暴力主義も同じ公民権運動の仲間には理解されなかったし、マザーテレサもまた、人々を改宗させることよりもただ無条件に助けるということで同じキリスト教の人々によって攻撃を受けたこともあった。 まさに今日の聖書の中で人々がイェスの言葉を理解できずにつまづいて去って行ったのと全く同じである。限られた知性で理解するのは難しかったのである。しかし、ペテロは「主よ、わたしたちは誰のところに行きましよう。永遠の生命の言葉をもっているのはあなたです」と告白したのである。キリストの死と復活(贖い)がまだ起こっていない時点にあって、彼もまた他の弟子達同様、はっきりとイェスの言葉が理解できていなかったと思われる。しかし、彼にはイェスとの出会いと、イェスの人格との交わりを通して「この方しかいない」「この方にかけるしかない」ということが直感的に分かっていたのではないだろうか。「主よ、私達は誰のところに行きましょうか」という言葉からもこういったやや受動的な感じが伝わるのである。 私達に求められているのはこのようにイェスの命の言葉にかけていく姿勢である。理論的に完全に把握して理解することではなくて、赤ちゃんが自分の母親に対してもつ絶対的な信頼のように、この人以外は誰のところにも行くオプションはないというひたむきな態度なのである。自分は何の素晴らしい言葉も言えない小さな者であるけれども、ただ主の名を呼び助けを求めることばを持っている。そしてそれで十分である。 「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。」詩篇130篇のこのことばこそ、私達がどうにかして持つことの出来ることばであって、それでもって十分なことばである。 私達のことばは自分を支えるものが何もないところから神に叫ぶものでしかない。私達の祈りのことばが神に受け入れられる根拠もその資格もない。ただ主の恵みだけに頼って、赤子が母親を求めて泣くように、ひたすら主イエス・キリストの名を呼び求めるだけである。 私達もパウロのように、強がることをやめて主の前に自分自身の弱さをさらけ出して、主の前にひたすら救いを求める私達で在りたい。「主よ、わたしたちは誰のところに行きましよう。永遠の生命の言葉をもっているのはあなたです。」
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毎週日曜午前10時30分より 13091 Galway St. Garden Grove, CA 92844 説教: 金 泓善 牧師 伴奏: 栗原 かおり 姉妹 司会: 金 貴子 姉妹 お問い合わせ: (310)339-9635 wjbc01@gmail.com エキサイトブログ
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