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第一日本語バプテスト教会の
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私達はアメリカ、オレンジカウンティで日本語で礼拝を行っています。
一緒に神様を賛美しませんか。


毎週日曜午前11時より礼拝

礼拝後、Tea Hour/Bible Studyを設けています。

住所:
13091 Galway St.
Garden Grove, CA 92844
(Cross St: Garden Grove Blvd.)
St. Anselm's Episcopal Church内


初めていらっしゃる方は、礼拝場所が分かりにくい場合がありますので、
できれば事前にご連絡ください。

地図はこちらから。


お問い合わせは、こちらからどうぞ。
wjbc01@gmail.com
310-339-9635






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「ブログ 日々の糧」: 牧師によるブログ



# by wjbchurch | 2012-12-31 15:11 | はじめに

~イースター記念礼拝~
「よみがえりの主イェス」
ルカ24:1-12




大よそ2012年前のこの日曜日、エルサレムのある共同墓地で人類全体にとって最も画期的で重要な出来事が起こった。「墓」、それはそれまでは絶望、死、悲しみ、恐怖、そして永遠に変わることのない無の象徴であった。それだから人間は墓の前で愚かに問いつづけ、泣きわめき、そして絶叫してきた。「なぜ?」「どうして?」「あの人が?」「あの子が?」「彼が?」「彼女が?」、そして「私が?」「なぜ、人間はここに至って全てが終わってしまうのか」、「なぜ、私の大事なものがここに来て全部崩壊してしまうのか」、「なぜ、私の愛する者と永久の決別を告げなければならないのか」と。しかしこれらの問いに、答えは無かったのである。そこには伝統的宗教も、誇り高ぶる現代の文明科学も、沈黙を続けるのみであった。

ところがその朝、これまでの全ての認識が否定される出来事が起こった。絶対的であった死の脅威と権威が崩壊した。それは、イェスキリストの復活の出来事だったのである。そういう意味でイェスの復活は我々にとっての真なる希望に他ならない。権力を恐れず、人を恐れず、神の道をひたすら歩まれたイェスが、人間の悪によって葬り去られただけで終わってしまっていたら、そこには現実の暗さ、虚しさだけが残っていた。しかし、イェスはよみがえられた。全ての悪と罪に勝利されたのである。イェスキリストの復活によって、人類の歴史は「新しい生命の始まる日、真の秩序による歴史が始まる日」を迎えたのである。

この復活の主を信じるか信じないか、復活の主に希望を託すか、それとも人間の知恵と力に希望を見出すか、どちらを選択するかによって「人類の運命」が決定される。しかし私達は、AD2012年を生きているにも関わらず、復活の主に希望を託す代わりに、自分達の知恵と力に希望をつないでいることがあまりにも多いのである。それは、「復活なんて非科学的な話は信じられない」という人間の傲慢さや愚かさがその原因であるのではないだろうか。自分の力で復活する事など出来ない我々に、復活を信じられるわけがないし、結果、限られた自分の頭で考えれば、信じられなくなるのは当然である。

今朝の聖書に、女達が墓の中でイェスの身体を必死に探していた時、天使が「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」と言ったと記されているように、我々が自分の理解できる範囲で、神を自分のレベルに引きずりおろして理解しようと試みる時、そこに「神は不在」なのである。

しかし、神を、自分を超える者として認めて、ゆだねていこうとする時、神自らが我々を信じるようにして下さるのである。マルコによる福音書を見ると、女たちは「誰が私達のために墓の入り口から石をころがしてくれるでしょうか」と考えながらも、香料をもってイェスの墓に行ったと書かれている。迷いを持ちながらも、神に信頼し、墓に向った女達こそが「すでに動かされていた石」を体験し、復活のイェスに出会うのである。私達も信じるための理由を求めるより、不信仰のままの自分自身を神に委ねることの出来る勇気を持つ一人一人で在りたい。
# by wjbchurch | 2012-04-29 22:13 | 細い声

「十字架」
ルカ23:13-43


最近よく十字架を、ただの一つのアクセサリとして考えて身につけているのを目にするけれども、よく考えて見れば、それは今風に言うなら、死刑囚を処刑するための電気イスを首にかけているようなものである。事実、十字架刑は当時、最もいまわしい、そして屈辱的な処刑方法とみなされていた。

刑の対象は奴隷の悪質な犯罪者か、反逆者に限られ、刑の直前には、囚人は激しく鞭打たれ、十字架の横木を背負って町を引きずられ、処刑場まで歩かされた。処刑場にはすでに十字架の縦木が立っているのが通常であった。そこで囚人は横木に両腕を釘打たれるか、ロープでしっかりと固定させられ縦木につけられる。普通、十字架刑に処せられた者は1-2日かかって、窒息ないしは出血量減少性ショックによって死に至る。(しかし、イェスは6時間で絶命。)その後は一般的にそのままにして烏などの餌食にさせて処理するか、共同墓地に投げ込まれる。

このような犯罪者としての烙印を背負って、苦痛を背負って、イェスはゴルゴダの丘に向って歩まれた。「プライド」も「くやしさ」も、全てを後にして謙った奴隷のような姿で歩かれたのである。このイェスを前に、私達は誰一人として自分を誇ることは出来ない。「私は正しい」「私はこう思う」「私はこれだけは譲れない」、こういった全ての「私」という誇りを、イェスは虚しいものとされる。

私達クリスチャンにとって、この十字架の意味は、非キリスト者にとってのアクセサリや魔除的な意味をはるかにまさった意味がある。つまり「人間の罪の代価として、イェスが犠牲になってくださったシンボルであり、それを信じることによって救いが与えられるという象徴である」という意味を持つ。しかしイェスの十字架の意味を論ずる前に、イェスの苦難の十字架に共にあずかろうとする信者は果たして何人ほどであろうか。問題は「知っているか」ではなくて、イェスの十字架を真に自分の十字架として「感じているかどうか」である。

主イェスは一点の罪もないまま、奴隷の犯罪者だけが受ける極刑の十字架刑に処せられた。人々の嘲笑、兵士達の鞭、彼らが打ったイェスの手の平の五寸釘でさえも私の罪のためであり、さらにはイェスを殺したのも、この私であるという告白なしには、十字架はただの二千年前の出来事に終ってしまうのである。

私達はいつの間にかキリスト教を自分の都合のよい「愛のセンチな宗教」にしてしまったのではないか。キリストの十字架による救いの約束は、この世における試練や不安に対して麻酔剤となって私達の神経をごまかしてくれるようなものではない。むしろ世の人々よりも、罪や試練や不安を鮮明に感じ、苦しみながらも全てを主にゆだね、立ち向かって行く勇気が常に与えられること、これこそが十字架によって与えられた救いの約束による「真の希望」が生み出すものである。

使徒パウロは、イェスの受難にともに与かることなしに、我々に復活はあり得ないと言った。すなわち、聖書が我々に要求しているのは、あのイェスの隣りの十字架にかけられたもう一人の罪人のようになることである。私達は、キリストと共に「自分の内の古き人」を十字架につけなければならない。「私が正しい」「私を認めろ」「私は私のものである」というその「私」を十字架につけなければならないのである。すべての古き自分を十字架につけ、全てを主に信頼し、拠り頼む時、主は、隣りの十字架にかかっている私達に顔を向けて「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」言われるのである。
# by wjbchurch | 2012-04-29 22:07 | 細い声

「豊かな実を結ぶには」
ヨハネ12:20-26


聖書には、祭りで礼拝するために上って来た数人のギリシャ人が、イェスの弟子のところに来て、キリストに会える場を設けて欲しいと頼んだことが書かれている。このギリシャ人達というのは、当時世界中に散らばっていたユダヤ教徒を通して、ユダヤ教に改宗した「改宗者」か、もしくは、ただユダヤ教に興味をもっていた人々であるとされている。彼らは、おそらくユダヤ教の代表的な祭の日に、エルサレムに巡礼に来たと考えられる。そして、そのついでに当時話題になっていたイェスという人にも是非会ってみたいと思って、イェスの弟子達を通してコンタクトをして来たのである。おそらく、知的好奇心やお土産話のためにイェスに一目会いたいと思ったのではないかと思われる。しかし、そのような彼らの「物珍しさから出たリクエスト」に対してイェスは厳しいことばを返しておられる。「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよくあなた方に言っておく。一粒の麦が、地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら多くの実を結ぶようになる。」イェスキリストはご自分がもうすぐ、人々の罪のために十字架にかけられることを言っておられるのである。すなわち、人類の救いのためにご自身の命を差し出そうとされているキリストに、興味本位な追従はふさわしくない。

聖書は世界のベストセラーであると言われるが、それはあくまでも教養書としての聖書であり、信仰の物差しとしてではない。何年か前に流行っていた本で「心のチキンスープ」という、いわゆる「癒し系」の本があったが、要するに聖書も一つの自己満足レベルでの気休めや一時的な心の慰めのために使われて来ているところがあると思う。私達クリスチャンにおいても、信仰をもって生きて行くということが、キリストに従うというコミットメントより、いつのまにか、受けるであろうリワードの方にばかり気を取られてしまっているのではないだろうか。

人間は、まず自分を誰よりも愛する存在である。しかし、本当の意味で愛するというのは、間違った自分・罪深い自分を憎むことではなかろうか。私達は自分の罪を認めたがらない。しかし、イェスキリストは、何一つ罪がないにも係わらず、まるで罪人のようになり、人間の罪を代わりに背負って死んでくださったのである。自分は何も悪くないのに、自分の一番大事なもの、すなわち、自分の命を相手のために差し出す、ここに本当の愛があるのである。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと自分の罪を認めない。ここにハッキリと神の子の姿と、罪深い人間の姿があるのである。しかし、イェスキリストは、このようなどうしようもない私達に対して、「私に仕えようとするなら、私に従って来なさい」と言われるのである。ご自分が歩まれた道を通って従って来なさい、と言われる。その道以外に、命へと通じる道はないからである。

その道とは、一粒の麦だった自分が地に落ちて死ななければならない、本当に険しい道ではあるけれども、その歩みには常に喜びと感動がある。それは、その道こそがキリストが私達と共に歩んでくださる道であるからであり、やがては永遠の命へと通じる道であるからである。今朝の御言には「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るのである」とあるように、私達一人一人がそれぞれの人生において、自分が主人公になることを止めて、キリストを自分の人生の主人公として生きて行く時に、初めてその人生は本当に祝福された豊かなものとなるのである。
# by wjbchurch | 2012-04-29 22:04 | 細い声

「用いられる喜び」
マタイ21:1-11


今朝の個所で、イェスがエルサレムへ入城される時、「(ロバと子ロバを)解いて私のところに引いて来なさい」と言われたとある。主のご用に用いられたこのロバは普通のロバである。特別な血筋だとか、極めて美しいとかいうわけではなかった。ロバというのは、荷物を運ぶための家畜である。当時の人々には、日々の生活になくてはならないが、特別に感謝されることもない、というのがこのロバという家畜のステータスであった。ロバの一生において「特別」なんてことはない。ところが、普段とは違うドキドキするようなことがこのロバに起こった。見たことのない二人の人が、このロバのひもをほどいて、つれて行こうとしたのである。ロバの持ち主が、「何をするのですか」ととがめた。すると、その二人の男たちは「主がお入り用なのです」と言ったのである。そしてその言葉を聞いたロバの持ち主は、すべてを了解したように、ロバと子ロバを彼らに連れて行かせた。ロバ達にとって「主がお入り用なのです」という言葉は本当に不思議であったのと同時に嬉しい言葉ではなかったのだろうか。主が自分達を必要とされていることには大きな意味があったのである。

ロバ達にとって主が自分達を選んでくださったことは偶然に思えたかも知れない。しかし、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に、このような預言が記されている。『見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶる事なく、ロバに乗って来る。』すべてにおいて神様のご計画が最初からあって、今やその成就の時が来て、御言通り実現したのである。

私達の人生でも偶然や突然に起こったように見えることも、実は神様のご計画であることが確かにある。神が、私達の救いのために、私達が救われるずっと前から計画していて下さったことを知らなければならない。歴史の中では、神様の救いの計画という線がずっと続いているのである。そして、今朝のロバにも、私達一人一人にもその線が続いていて、次の救いの計画へとつながる貴重な存在として用いられているということは驚きでもあり大きな喜びでもあるのである。

ロバに乗っておられた時、キリストはすでに死を覚悟しておられたのではないか。その当時エルサレムには、イェスのことが邪魔な宗教指導者達が集まっていた。彼らからエルサレムを取り戻すには、手荒な手段も必要とされるところだが、ロバにまたがったイェスは、全く非武装であった。イェスは「ただ神の力だけによる」という覚悟でいたのではないか。それは、「愛し抜く力、許し抜く力」である。十字架につけられてもなお、それを黙って受け、最後まで愛し通す力である。イェスキリストは平和の王であり、救いをもたらした真の救い主である。
ここで日本のある牧師の「ロバの独白」という本の中で、イェスを乗せたロバの証しを紹介しよう。「イエス様をお乗せしたのは私ですが、私の重い荷を負ってくださっていたのは、実はイエス様だと気がつきました。皆さんもそうではないですか。イエス様のために何かしている、働いている、と思っていても、本当は、イエス様が私共の重い荷を、背負ってくださっているのです。皆さん、どうか一人一人が主のご用のため、今この場に呼び集められたことを信じてください。それぞれが如何に弱く小さな存在でも、主がご用のため呼び集めて用いてくださっているのですから、何も恐れることはありません。私のように主をお乗せして、主に全てを委ねて進んで見てください。私達にはそれしか出来ませんが、それってどれだけ栄光なことでしょうか。」
# by wjbchurch | 2012-04-29 22:01 | 細い声