IE9ピン留め


第一日本語バプテスト教会の
ホームページへようこそ!


私達はアメリカ、オレンジカウンティで日本語で礼拝を行っています。
一緒に神様を賛美しませんか。


毎週日曜午前11時より礼拝

礼拝後、Tea Hour/Bible Studyを設けています。

住所:
13091 Galway St.
Garden Grove, CA 92844
(Cross St: Garden Grove Blvd.)
St. Anselm's Episcopal Church内


初めていらっしゃる方は、礼拝場所が分かりにくい場合がありますので、
できれば事前にご連絡ください。

地図はこちらから。


お問い合わせは、こちらからどうぞ。
wjbc01@gmail.com
310-339-9635






その他のコンテンツは、カテゴリ欄およびエキサイトブログのリンクを参照してください。

*****
カテゴリ欄:

「牧師からのメッセージ」:我が教会の牧師が、信仰について、そして教会について語っています。
「礼拝について」:礼拝の式順など、礼拝についてお知らせしています。
「What's New」:お知らせや変更をお伝えしています。
「細い声」:毎週礼拝で伝えられる説教を要約したものです。毎週更新です。
「教会主催アクティビティ」:教会が主催して行っている活動をご紹介しています。
「フォトギャラリー」:教会での活動を写真で紹介しています。


*****
エキサイトブログ:

「ブログ 日々の糧」: 牧師によるブログ



# by wjbchurch | 2012-12-31 15:11 | はじめに
「注がれる霊、与えられる夢」
ヨエル書2:28-32


現代人はあまり夢を抱かなくなったと言われる。まず一つの理由として、実現不可能としか思えないゴールを持つことは、非現実的であるとする合理主義がある。言ってみれば、私達にとっての夢・ゴールと言うのはいつも、それが過去のデータの確率に基づいて現実的に実現可能とみなされるかどうかで、それが「夢」なのか、それとも「妄想」に過ぎないのか決まるものである。そして、この合理性に基づいて操作された私達の理想や希望というものは、常に純粋な「夢」には成り得ないのである。

夢を抱けなくなったもう一つの理由は、現代人にはそれぞれの「夢」の見本とすべき、理想というものがあまりにも限定されているからではないか。
理想とは、まだ自分は到達していないが、何かを通して、誰かを通じて見た事柄である。よって自分の意思を超えたところでの「意思」、自分の愛を超えたところでの「愛」、自分の力を超えたところでの「力」、すなわち自分の存在を超えたところでの「神の存在」に出会っていない人にとっての「夢」とは、いつも自分の中に収納可能な「限られた夢」に過ぎない。

しかし神を信じる人々にとっての夢とは、聖書にあるように、あくまで神がご自身の霊を注ぐことで、受ける恵みである。また、神の霊は、ある特定の人々にだけ注がれるのではなく、肉なる全ての人々に注がれるのであり「しもべや、はしために注ぐ」ということからも、どのような社会構造・あるいは政治的圧力下にあっても、神の霊が注がれることを止めることは出来ないという事を意味する。

キング牧師の誕生日はアメリカの祝日であるが、一個人の誕生日が国家の祝日となったのはジョ-ジ・ワシントン以後初めての事である。それほどキング牧師が高く評価されているわkであるが、その理由は何だろうか。それは、彼の持っていた博士号でもなければ、彼が優れた社会運動家であったことでもなく、彼が「夢の人」であったからではないだろうか。

どのような夢を持つ人であったかを説明する前に、まず触れておかないといけないことは、彼の代表的な演説「私は今日夢を持つ」(I have a dream today)の「今日」とは一体どのような今日であったか、ということである。彼が夢を持つことの出来た「今日」とは、私達がよく知っている通り人種差別という「不条理と不義と侮辱と敗北の現実」であった。しかし、彼はその現実においても、決して信じた夢を失わず、その夢の成就のために素手でもって、固く閉ざされている鉄の扉を休まず叩き続けたのである。キング牧師は、神が与えられた夢、すなわち、キリストによって人間にそしてこの暗い世界に救いが臨む、という神の約束を信じて生きたのである。

真の夢と希望は、私達の中から生み出せるものではなく、あくまでも神によって与えられるものである。「その日、私は、奴隷となっている男女にも我が霊を注ぐ」、神の霊、それこそ神の恵みであり、神の力なのである。不完全な私達、世の常に縛られている私達、そして絶望にある私達にこそ、神はご自身の霊を注ぎ、私達に夢を与えることを通して、やがては、神がともにある「家庭、社会、そして国家」を実現なさるのである。
# by wjbchurch | 2012-01-29 13:20 | 細い声
「管理者としての生き方」
マタイ25:14-30


今朝の御言は神と私達の関係についての譬えである。主人とは神、僕とは私達、そしてタラントとは与えられた命、信仰、能力、等を指すものである。主人が旅に出る前に3人の僕たちを集めてそれぞれに決まった金額を預けた。するとその内の二人は、タラントを活かして実を結びなさい、という主人の心を見ぬいて預けられたタラントを運用して増やしていった。しかし、もう一人の僕は、何のためかを考えず土の中に埋めておいた。いよいよ主人が旅から帰って来て3人の僕と清算を始めた時、他の2人はその働きをほめられたが、タラントを活かさず土に埋めた僕だけは「悪い怠惰な僕よ」とひどく叱られ、持っているもの全て取り上げられ、外に追い出されてしまうのであった。

ここでイェスが言われていることは、私達が神から自分に与えられたものを活かさず、ただ現状を維持するというだけでは、与えられたものを全て無くしてしまったのと対して変わらない、ということである。私達の人生において、現状を維持しただけの人生とは何であろうか。それは、周辺の人々に対しても自分自身の魂に対しても何の影響も変化も、また自分の魂に対する疑問も持たないまま、ただ平均寿命約75年という哺乳類「人間」を生きた人生である。「私は命というものを与えられたのでただ何となく今まで生きて来ました」というのでは、自分に命を与えた神の目的、その秘められた意志を何一つ理解しようとしなかった怠惰な僕に変わりないのである。

「命、信仰、能力」。私達はよくこれらのものが、すべて自分のものであると思いがちである。私達を取り巻く全ての不協和音はこのような勘違いから起こってくるのではないだろうか。全ての戦争や紛争の原因は、地球の資源や土地のみならず、地球そのものまでも全て自分達のものであると勘違いをしてしまうところから起こってくるのではないか。私達はただの管理者に過ぎないのだ、という認識が欠けているがために、分かち合いもっと豊かにしよう、とはならず、互いが争い合って力の強い者が弱い者から奪う、いわゆる弱肉強食になってしまう。全てのものが神の恵みによって与えられたのであるにも係らず、それを自分の物と主張し奪い合うことは、人に対する罪である以前に神に対する罪であるのである。

全てが神によって与えられたものであり、一人一人はそれを主に代わって管理することをまかされた管理者に過ぎないという信仰に、私たちはしっかりと立っているのだろうか。私の能力も、私の才能も、私の財産も、私の命そのものさえ全て神のものなのであるという信仰告白がなされる時に初めて感謝と平安が私達の心に訪れる。私達が持っているすべては、自分の能力で勝ち得たのではなく、資格がないのにも係らず、神の恵みとして与えられたものであるという信仰に立ちかえる時、すべては恵みであり感謝に値することが分かるのである。この感謝と自覚をしっかりもって神の意志を汲み取って生きて行くことこそが、私達に任されたそれぞれの人生においてのミッションであり、生きる意味であり、目的なのである。

どうかここに集う一人一人が新しく与えられた2012年という年を生きて行くに当って、今一度管理者としての生き方に徹して、感謝をもって歩んでいくことが出来る私達で在りたい。
# by wjbchurch | 2012-01-03 09:56 | 細い声
「クリスマスの意味」
ルカ2:1-20


ヘロデがユダヤの王であったその頃、ローマ皇帝から全植民地の住民に人口登録をせよとの勅令が出た。これは皇帝が、植民地の国民から人頭税を取り立てるために、支配していた全ての国々に対して行なったものである。ヨセフは、その時マリアが身重であったにも関わらず、その強引な命令に従って、自分の先祖、すなわちダビデの町である「ベツレヘム」へと住民登録のために旅立った。一見、権力者の命令に服従しなければならなかった弱い立場の夫婦の姿。しかし、実はこれこそ「ベツレヘム」で救い主がお生まれになるというイザヤの預言を成就させるための神のご計画だったのである。当時世界を支配していたローマ皇帝が世界の歴史を動かしていたようでいて、実はその彼も、神の救いの歴史を展開させる役割に過ぎなかった。大帝国ローマは滅びたが、世の隅で生まれた幼子は歴史を紀元前と紀元後に分かつ中心点であり、今も私達の人生の中心である。

6節に「彼らはベツレヘムにいるうちにマリヤは月が満ちて初めて子を産み、布にくるんで飼葉桶に寝かせた」とある。その頃、羊飼い達が、野宿をしながら羊の番をしていた。そこへ主の使いが近づき、主の栄光が周りを照らした。彼らは、汚い酷な仕事をしている自分達を照らしてくださる主の栄光を驚き恐れた。そして、さらに主の使いは、彼らに救い主のお生まれを告げ知らせたのである。彼らにとって馬小屋でお生まれになり飼葉桶に寝かされている救い主というのは大きな意味があった。自分達のように弱く小さな者のところに来て下さった救い主に心から親密感を覚え、その喜びのあまり「さあ、ベツレヘムへ行こう。」と立ち上がったのである。そして彼らは、その目で確かめて上で、人々に知らせた。しかし、人々は羊飼いの話しを聞いても、ただ不思議に思うだけで信じようとはしない。飼葉桶の徴につまずき、この徴を伝える羊飼いにつまずいたのである。
しかし、飼葉桶の徴だからこそ私達には大きな意味がある。それは、自分達の創造者である神と真っ直ぐに向き合おうとせず、どの場所にも神をおらせなかったにも係わらず、イェス様は「泊まる場所がない」という状況に強いて来てくださったということである。要するに、憎しみや無関心がはびこっている私達のこの絶望的な世界に真の希望がもたらされたのである。

人々は自分が成し遂げたものに生きる意味や価値を見出そうとする。しかし、本当の生の価値や意味は、その人の能力によるものではなく、その人がそのままの形で、ただそこにいる、それだけで価値がなければならない。しかし、私達はただそのままの自分という存在から自分自身の価値を見出すほど楽観的にはなれない。なぜなら、自分で自分を赦すことが出来ないほど「罪」に満ちていることを、私達は実はよく知っているのである。すなわち、自分を超える誰かに赦され、救われなければ解決されないことを無意識の内に気づいているのである。

そこでクリスマスが真に嬉しい出来事であるということは、神が私達の罪を赦すために、ご自身の独り子をこの世に送り、私達の罪を背負って十字架にかかり死んでくださったほど、私達は神に愛され、生きるに値する存在であるという証明だからである。だからクリスマスは、悲しむものには慰めを、罪人の嘆きには赦しを、捕らわれた人には自由を、虐げられた人には愛を意味する。また、キリストイェスを信じる者には、新しい希望と永遠の命が与えられるのである。
# by wjbchurch | 2012-01-01 05:43 | 細い声
「クリスマス・プレゼント」
マタイ2:1-12


本日の聖書の個所は、キリストの誕生を知らす星によって導かれた3人の博士が、みどり児イェスの御前にその贈りものを捧げる場面である。この東方から来た博士達は、ユダヤ人ではなかったが、星だけを頼りに、お生まれになるユダヤ人の「救い主」を拝むために、多くの犠牲を払い、リスクを負いながら、どこまで続くか検討もつかない旅を決行した。

当時の天文学者に当たる彼らには、その星が示す方こそが全人類の救い主であることが分かっていた。そして、彼らは自分達の持っている中で一番貴重なものをこの救い主の御前に捧げた。すなわち、黄金・乳香・没薬がそれである。そしてこれらの贈り物は、後に救い主を恐れて同じ時期に生まれた男の子を皆殺しにしようとしたヘロデ王から逃れて、エジプトに渡った家族の経済的な支えとなったと考えられている。
彼らのこの贈り物から、クリスマス・プレゼントというものが由来した。しかし、大事なのは彼らのプレゼントは、あくまで御返しのプレゼントであったということである。すなわち、神の独り子イェスというプレゼントをくださった神に対する感謝の気持を捧げたのである。

この時期になると、私達はよく「ホリデー・スピリット」あるいは「クリスマス・スピリット」という言葉を耳にするけれども、クリスチャンにとってクリスマス・シーズンは、神から受けた「愛と恵みと慈愛、そして赦し」というプレゼントを再確認する時期であり、その喜びを隣人と共に分かち合うシーズンでもある。そして、クリスマスが喜ばしい理由は「神が私達を罪から救うために、やがて私達の罪に代わって十字架に死んでいく役命を果たさすために、ご自分の独り子を私達のところに送ってくださった」ところにある。だからこれ以上の愛と慈しみがどこにあるのだろうかと、人々は普段では出来なかったことをしようとするのである。「私達は神から何にも勝る尊いプレゼントを賜った。それゆえ私も隣人を愛そうではないか。」というクリスマス精神に基づいているのである。

すなわちクリスマスは、人間にとって神からの最大のプレゼントを受けた日なのである。そして今日こそ、神から私達へ最大のプレゼントが贈られた2011回目の記念日である。私達を赦し救うために、私達の罪を代わりに背負って十字架につけられるために、今日お生まれになったその方の御前に、私達は何をそなえるべきだろうか。私達は自分自身をささげるべきである。

もうすでに信仰の道を歩んでいる兄弟姉妹であるならば悔い改めをもって、信仰の決断として、新たに自分自身をささげるべきである。そしてまだ求道者であるのならば、星を見てそれまで自分達が安住していたところを離れ旅立ったあの博士たちが、聖書のみことばに導かれ、イェス・キリストこそが自分自身の真の救い主であると洗礼を受けて自分自身をささげた事をもう一度思い返すべきである。彼らのその行為こそが、愛と慈しみと救いのクリスマス、その大いなる喜びを、自分自身のまことの喜びとして与かることの出来る唯一の方法なのである
# by wjbchurch | 2012-01-01 05:42 | 細い声