「注がれる霊、与えられる夢」
ヨエル書2:28-32
現代人はあまり夢を抱かなくなったと言われる。まず一つの理由として、実現不可能としか思えないゴールを持つことは、非現実的であるとする合理主義がある。言ってみれば、私達にとっての夢・ゴールと言うのはいつも、それが過去のデータの確率に基づいて現実的に実現可能とみなされるかどうかで、それが「夢」なのか、それとも「妄想」に過ぎないのか決まるものである。そして、この合理性に基づいて操作された私達の理想や希望というものは、常に純粋な「夢」には成り得ないのである。
夢を抱けなくなったもう一つの理由は、現代人にはそれぞれの「夢」の見本とすべき、理想というものがあまりにも限定されているからではないか。
理想とは、まだ自分は到達していないが、何かを通して、誰かを通じて見た事柄である。よって自分の意思を超えたところでの「意思」、自分の愛を超えたところでの「愛」、自分の力を超えたところでの「力」、すなわち自分の存在を超えたところでの「神の存在」に出会っていない人にとっての「夢」とは、いつも自分の中に収納可能な「限られた夢」に過ぎない。
しかし神を信じる人々にとっての夢とは、聖書にあるように、あくまで神がご自身の霊を注ぐことで、受ける恵みである。また、神の霊は、ある特定の人々にだけ注がれるのではなく、肉なる全ての人々に注がれるのであり「しもべや、はしために注ぐ」ということからも、どのような社会構造・あるいは政治的圧力下にあっても、神の霊が注がれることを止めることは出来ないという事を意味する。
キング牧師の誕生日はアメリカの祝日であるが、一個人の誕生日が国家の祝日となったのはジョ-ジ・ワシントン以後初めての事である。それほどキング牧師が高く評価されているわkであるが、その理由は何だろうか。それは、彼の持っていた博士号でもなければ、彼が優れた社会運動家であったことでもなく、彼が「夢の人」であったからではないだろうか。
どのような夢を持つ人であったかを説明する前に、まず触れておかないといけないことは、彼の代表的な演説「私は今日夢を持つ」(I have a dream today)の「今日」とは一体どのような今日であったか、ということである。彼が夢を持つことの出来た「今日」とは、私達がよく知っている通り人種差別という「不条理と不義と侮辱と敗北の現実」であった。しかし、彼はその現実においても、決して信じた夢を失わず、その夢の成就のために素手でもって、固く閉ざされている鉄の扉を休まず叩き続けたのである。キング牧師は、神が与えられた夢、すなわち、キリストによって人間にそしてこの暗い世界に救いが臨む、という神の約束を信じて生きたのである。
真の夢と希望は、私達の中から生み出せるものではなく、あくまでも神によって与えられるものである。「その日、私は、奴隷となっている男女にも我が霊を注ぐ」、神の霊、それこそ神の恵みであり、神の力なのである。不完全な私達、世の常に縛られている私達、そして絶望にある私達にこそ、神はご自身の霊を注ぎ、私達に夢を与えることを通して、やがては、神がともにある「家庭、社会、そして国家」を実現なさるのである。